覚醒の炎―プンジャジの教え 覚醒の炎―プンジャジの教え


1.考えているのは誰か?

質問者
私はここにいる間に、師とともに最善の時を過ごしたいと願っています。それでも、まだどうすればいいのかわかりません。どうすれば一番よいでしょうか?

パパジ
あなたがここに来た目的を果たしなさい。まずあなたの目的を明確にしなさい。関係性は重要ではない。それは後でおのずと明らかになるだろう。目的が最も重要なのだ。

喉が渇いているとき、あなたは川に行く。あなたの目的は喉の渇きを癒すことだ。あなたが川とどのような関係をもつかは問題ではない。必要なのは関係性ではなく、目的なのだ。

あなたは一昨日ここに来た。あなたの目的とは、自分が誰かを知ることだ。それを見いだしなさい。自分が誰なのかをまず知りなさい。自分が誰かを知れば、私が誰なのかもおのずとわかるだろう。それゆえ、あなたの最も重要な質問は、「私は誰か?」だ。ひとたびこれを見いだせば、物事や人々の真の本性もすべて知ることになる。「私は誰か?」という問いからはじめなさい。私たちはすでに一昨日この質問を問いはじめた。まず自己を認識することが必要なのだ。私があなたに尋ねなさいと言った質問は何だったかね?

質問者
「誰か?」ということです。
パパジ
そうだ。質問全体はどういうものだっただろうか?
質問者
「考えているのは誰か?」です。
パパジ
その通りだ。それがあなたに与えた質問だ。私はあなたがこの問いを通して源に戻り、そこで何を見たかを私に告げるよう頼んだはずだ。
質問者
私はそこで何を見たのでしょうか?
パパジ
そうだ。あなたはそこで何を見ただろうか? (パパジは紙に「誰」という文字を書いて質問者に見せた) ここに何を見るかね?
質問者
紙に書かれた文字です。
パパジ
この単純な言葉があなたの問いなのだ。
質問者
私はそこに何を見るのでしょうか?
パパジ
どこであろうと、いたるところに「誰」は存在している。あなたの質問は、「考えているのは誰か?」だ。
質問者
質問は理解できます。
パパジ
その問いがどこから現れるかわかるだろうか? この問いに集中しなさい。そして、それがどこから起こるのかを見いだしなさい。「誰」に戻りなさい。そこに何を見るだろうか?
質問者
私はそれが現れるのを見ています。何かが次から次へと現れています。
パパジ
現れたものは属性でしかない。その主体は何だろうか? 誰が考えているのか? 思考という属性から戻って、主体に意識を集中しなさい。これが最終段階だ。今、あなたは源にいるのだ。そうではないかね? この「主体」とは誰なのか、それを見いだしなさい。その形はどのようなものか? この「主体}とは誰なのか、それを見いだしなさい。その形はどのようなものか? この「主体」の形は何だろうか? それはどのようなものか?

(長い沈黙)


なにが起こっているかね?
質問者
質問は無から、空(くう)に現れ、ふたたび空の中に消え去っていきます。
パパジ
そのとおりだ。あなたはこの問いが空の中に消え去ったと言う。質問は、「考えているのは誰か?」だ。考えるには心が必要だ。そうではないかね? 今、思考過程が停止した。それはあなたが、「考えているのは誰か?」と尋ねたときに起こったのだ。今、その過程が停止した。そして、あなたは質問が消え去ったと言った。あなたは「そこに空がある」と言った。何か他に言うことがあるかね?
質問者
それは空、ただの空洞です。
パパジ
そうだ、それは空だ。それは空洞なのだ。空が、空間がそこに存在する。これが自己本来の本性なのだ。それを存在や空間、あるいは何と呼んでもいい。それは欲望と思考に遮(さえぎ)られている。それは常に欲望に妨げられているのだ。

空とは単に想念と欲望の不在にすぎない。肩に重荷をかついでいれば、安らぐことはできない。例えば百キロの重量をかつぎながら、それから逃れたいと願っているなら、それが重荷だ。それを降ろしたからといって、あなたは何かを得るわけではない。以前にはなかった新たな状態を達成したわけでもない。ただあたなを苦しめていたものを捨て去って、重荷を背負う前の本来の状態に戻っただけなのだ。

この思考過程、この重荷とは、私たちがいつも抱いている欲望のことだ。私はあなたにこの厄介な重荷をどうやって降ろすかを指し示している。「考えているのは誰か?」と尋ねることは思考過程を止め、あなたは本来の自己、自然な状態、空なる純粋な源に戻る。これがあなたの本性だ。あなたはいるも「それ」なのだ。そこに心は入りこまない。時間も、死も、恐れも入りこまない。これが自己本来の永遠の本性だ。そこにとどまりさえすれば、恐れは消え去る。そこから一歩外に出れば、このサンサーラ、世界という現れに足を踏み入れることになる。そして絶え間ない災難に巻き込まれるのだ。
質問者
私は何かもっと偉大なころが起こってほしいと望んでいるのです。
パパジ
どういうことかね?
質問者
思うに、私はそれが何か偉大な体験のようなものだと期待を抱いていたのです。しかし、その体験はとてもふつうのことなのですね。とてもはっきりとした、とてもふつうの、まったくの空なのですね。
パパジ
そうだ。すべては空から立ち現れる。何百万もの惑星や太陽系から成るこの宇宙全体は空から現れた。天空に漂う無数の星々も、この空から立ち現れた一つの想念から生まれくる。しかもそれはその空にまったく影響を与えることなく起こるのだ。
質問者
私は空の中にとどまるべきなのでしょうか? 想念は空の中に現れます。その中のあるものは魅力的で、あるものは私を恐れさせ、あるものは不快な気分にさせます。私はその想念にしがみつき、自己同一化してしまいます。私はそれらの想念となり、ふたたび我に返るまで、空と存在を見失ってしまうのです。
パパジ
もしそのときに我に返るなら、すべては終わり、すべては消え去る。忘れないことが最善策だ。ただあなたの役を演じなさい。だが、すべては舞台上のドラマでしかないことを忘れてはならない。

ある劇団が芝居を演じているところを想像してみなさい。王の召使の役をする人が、上演の間際(まぎわ)に病気になって来ることができず、他に役者がいなかったため劇団の経営者が召使の役を演じることになった。劇の中で、経営者の雇い人の一人である王様役が召使に命令した。「散歩に出るから、靴を用意しなさい」。経営者はおとなしく命令に従った。だが、彼は自分が劇団の経営者であることを一瞬でも忘れただろうか?

彼は召使の役を楽しんで演じた。なぜなら、実際には自分が経営者であることを知っていたからだ。

自分が真我であることを知りながらこのように生きれば、どこにいても役を演じることができる。これさえ知っていれば、すべての行為はとても美しいものになる。そして二度とあなたが苦しむことはなくなるのだ。ひとたびこの空の一瞥(いちべつ)を得れば、あなたはサンサーラ、つまり世界の現れがあなた自身の投影でしかないことを知って、いつも幸せに生きることだろう。

この世界という現れはいったいどこから起こるのだろうか? あなたが眠っているとき、そこには何もなかった。そうではないかね?
質問者
そこには別の類(たぐ)いの夢が存在していました。
パパジ
私は夢について語っているのではない。その状態については後で話そう。私は深い眠りの状態について語っていたのだ。

数年前、私はリシケーシで、ある団体に出会った。世界中から二十五人の心理学者、生理学者、超心理学者が集まり、一風変った企画を試みようとしていた。それは「目覚めと夢見のただ二つの状態だけが存在する」ことを証明するというものだった。彼らによれば、人間は目覚めか夢見のどちらかにあり、眠りというような状態は、実際には存在しないというのだ。

彼らの一人がこう言った。「これこそわれわれが西洋で発見したことなのです。眠っている人の脳にEEGの装置を取りつけて調べてみたところ、深い眠りのように見える状態でさえ、夢は絶えず起こっているのです」

インドでは、私たちには五つの状態があるという。目覚め、夢見、眠り、トゥリーヤ、そしてトゥリーヤーティータだ。
質問者
最後のものは何ですか?
パパジ
トゥリーヤーティータだ。目覚め、夢見、眠りならあなたも知っている。この後には、トゥリーヤ、第四の状態がある。目覚め、夢見、眠りの三つの状態はトゥリーヤの中で現れては消え去るのだ。そしてそれを超えた状態がトゥリーヤーティータだ。それは「第四を超えたもの」を意味する。

これらの科学者たちは、アーシュラムからアーシュラムへとめぐり、彼らの装置で実験するためにスワミを探していた。ある科学者は宇宙飛行士の訓練計画に参加していた。どうやら宇宙飛行士たちは、宇宙で良い眠りについてはいなかったようだ。そこで、彼らの眠りの質を改善するために調査が行われていた。ある種の瞑想やヨーガが眠りのパターンを改善するという説があったからだ。

科学者たちは実験のためのスワミを探していた。瞑想中の彼らの脳波に何が起こっているのかを調べるためだ。多くの人に実験をした後、彼らはスワミ・ラーマに出会った。彼らが訪れたとき、彼はアーシュラムで庭仕事をしていた。私はその場にいなかったため、これは人から聞いた話なのだが。

彼らは敬意をもって彼に近づき、調査の目的について説明をした。そして彼の脳波を調べる間、座るか横になった状態で瞑想してほしいと頼んだのだった。

彼は答えた。「私が庭に水を撒(ま)いている間に電極をつないでかまいません。瞑想するために座る必要はないからです」

科学者たちは言われたとおり彼の頭に電極をつないだ。そしてふだんの庭仕事をしている間でさえ彼の心が働いていないことを見いだした。あまりにも驚愕(きょうがく)した彼らは、さらなる実験のために彼を国外に連れだしたのだった。

もしあなたが根底にある基盤の中に確立されたなら、いかに活動しようと問題はなく、しかも心を必要としない。すべての物事は真我が面倒を見るようになり、あなたは常に静寂の内にとどまるのだ。

目覚め、夢見、眠りの三つの状態と、それらの基底をなす第四の空の状態の話に戻ろう。眠り、夢見、目覚めという三つの状態は、現れては消え去るものとして、根底にある基盤の上に投影されている。そこには、それらが循環する何らかの基盤、ある土台が存在している。その土台、存在、空間は常にそこに在る。だが、外界の物事に巻きこまれて、あなたはそれを忘れてしまうのだ。

人は三つの段階に分けられる。第一の範疇(はんちゅう)は、けっしてそれを忘れることのない人。いかなる環境にあっても、彼らはすべての物事がこの根底にある基盤で起こっていることを知っている。彼らはジーヴァン・ムクタと呼ばれ、身体の中にとどまりながら完全に解脱(げだつ)している人を意味する。第二の範疇の人は困難に陥っている。なぜなら、彼らはあるときはそれを覚えているが、あるときはそれを忘れてしまうからだ。空に気づいている状態はあっても、死んだ友人の記憶が起こるやいなや、たちまち深い苦悩に陥ってしまう。彼らは想念にしがみつき、空への気づきを見失ってしまうのだ。この種の空は持続しない。それは気まぐれな精神活動に依存しているからだ。第三の範疇の人は常に苦しんでいる。彼らは自己本来の空を一瞥したことがないため、際限なく苦しむ。彼らにとってサンサーラは、終わることもなければほんの一瞬止むことさえない。

もし第一の範疇に属する人であれば、何であれ現れるものは自分自身の真我の現れであることを知っている。目覚めとともに世界が立ち現れる。だが、あなたはすべてが自己の投影にすぎないことを知っている。眠りにつけば世界は存在を消す。だが、あなたの真我はとどまるのだ。あなたが眠っている間にも、そこには何かが存在している。その何かとは、あなた自身の真我なのだ。
『覚醒の炎―プンジャジの教え』 より