この著作はフィクションではありません。アメリカ メイン大学 社会学教授キリアコス C. マルキデス博士によるルポルタージュ(取材書)です。登場人物は実在人物ですが、著者と取材者との契約上すべて仮名で書かれています。
メッセンジャー ストロヴォロスの賢者への道
著:キリアコス・マルキデス 訳:鈴木 真佐子
太陽出版 初版1999年



第1章 ストロヴォロスの賢者

スピロス・サティ(取材人物と著者の約束により仮名) のことは子供の頃から知っていた。死後の世界について島では一番の専門家という彼の評判は、憧れと好奇心と恐怖の入り混じった気持ちを私に抱かせた。子供だった私たちは、教区の司祭からは、この悪魔のような力を持った男、ストロヴォロスの賢者を避けるようにと注意を受けていた。人に憑く霊の話や、悪魔払いの話、そして体を持たない霊たちで溢れていた彼の家に関する話を、目を丸くしながら聞いたものである。彼の名前はオカルトと同じ意味を持っており、誰でも、死んだ母親に会いたいという思いと勇気があれば、彼の家の戸を叩けばよかった。1960年(昭和35年)、私がキプロスを後にして、アメリカへと去った頃、スピロス・サティに対する私のイメージはそんなものだった。

20年近くもたつと、小さい時に想像をかき立てられはしたものの一度も会ったことのない男のことなど、ほとんど覚えていなかった。ストロヴォロスの賢者に対する関心は、キプロスを訪れた1978年(昭和53年)の夏まではなかったのだ。その時、私は旧友の言語学者と軽い会話を交わしていたのであるが、彼女は裁判官である夫とともに、半ば秘密結社のような真理の探究サークルに属していることをそっと明かしてくれたのである。この神秘的な集まりのスピリチュアルな指導者がストロヴォロスの賢者以外の何者でもないと聞いて、私はびっくりしてしまった。私はすぐさま、彼に会う意志があることを伝えた。

スピロス・サティに会うため、友人とニコシアの郊外にあるストロヴォロス地区を訪れたのは8月も終わりに近かった。なんて皮肉なんだろう、と私は思った。自分の家からたった2マイル(約3キロ)のところに住む謎の男に会うまでに、アメリカで18年も過ごさなくてはいけなかったなんて。私は、彼の評判からして厳しい性格で、すごい顔つきの人物に会うものとばかり予想していた。ところが、その先入観は見事に外れていた。背が高く、優しそうな顔をした60半ばのおじいさんで、恩給でつましく暮らす元政府印刷局の役人である。私が出会ったのは、半分気の触れた恐ろしい魔法使いなどではなく、感情豊かで信心深く、しかもユーモアにも溢れ、絵画やクラシック音楽などをたしなむ男だった。

彼は自身をヒーラー、そしてセラピスト、それから魂の医師と考えている。彼の人生の一番の関心事は彼の言葉で言うと、周りの人びとの痛みを和らげることである。そして、自己発見の旅に関心を持っていて、旅立つ準備のある者たちの手助けをすることであった。

「私たちは以前にあったことがありますね」

最初に会った時、彼は大きめの声で言うと、右手を額に当てた。

「いいえ、ないと思いますが」

私は笑いながら答えると、友人から紹介され、握手する手を差し出した。

「私たちは以前に会ったことがある」

彼は自信を持ってうなずきながら、腰をおろすために小さな居間に案内してくれた。私は誰か他の人と勘違いしているのだと思い、そのことについてはもう何も言わなかった。

友人は彼をダスカロス(ギリシャ語で「先生」の意味する敬称)と呼んだ。彼はコーヒーを出してくれて、私の家族について質問をしてきた。これは、人口50万ちょっと(鳥取県の人口と同程度)のみんながみんな親戚を誇るキプロスでは普通の習慣だ。その後、私は彼の人生や教えについていろいろと質問した。

思いがけず嬉しかったのは、ダスカロスがとても話し好きな人間で、惜しみなく質問に答えてくれたことだった。そして、2週間ごとに開催する集まりにまで私を誘ってくれた。最初に会った時、私は、彼の教えはキリスト教の神秘主義とインドの宗教が融合したようなものだと理解した。彼がカルマの法則と呼んでいる概念があり、それと輪廻転生説の2つが、ダスカロスが弟子たちに教える内容の中核をなしているようであった。彼が原始的なシャーマンどころか、とても理路整然とした、知的教養のある人間だと気が付いた時、ダスカロスの世界に対する私の好奇心はますます強まった。それでいて彼の住む世界は私がいるところからは、とても謎に満ちていて、エキゾチックに見えるのだった。

「ダスカレ(「ダスカロス」の二人称)、あなたが起こした奇蹟的な治療の話を聞きましたが、そういった奇蹟を見る機会は私にもありますか」と私は聞いた。私にとって奇蹟を信じるのは難しいことだとダスカロスに打ち明けた。そして、人類学の文献にはシャーマンやヒーラーが起こした不思議なヒーリングについてたくさん書かれていることを続けて説明した。「でも、自分自身でそういう現象を見てみないと、とても信じられないんです」と私は言った。

ダスカロスはニコニコしながら答えた。

「まずは、そのような奇蹟の治療は私ではなく、聖霊によってなされる。私はその超越した知性のチャンネルであるだけなんだ。そのような奇蹟といわれるものをあなたが見られるかどうかは、私が決めることではないんだよ。もしあなたが奇蹟の場に証人として居合わせるのが神の計画なら、そのようになるだろう。でも、奇蹟を起こすように注文することはできない」

ストアその日、私が帰る前に、ダスカロスは次の日の午後に彼の生徒たちとストア(ギリシャ建築で柱廊のある細長い独立した建造物で、この場合は、真理の探究についての教えやミーティングが行なわれる部屋を指す。この目的のために使われるダスカロスの裏庭の部屋)で行う集会に参加するよう、私を招待してくれた。そこは家とは別棟となっていて、裏庭にある小さな部屋で、彼は弟子たちの精神修養(トレーニング)を行なっていた。ストアは二つに分けられ、大きい方が教える場所、もう片方がダスカロスが瞑想をしたり祈りをしたりするサンクタム(聖所)になっていた。サンクタムは、キリストや聖母マリアのイコン(聖画像)とか白いローソクなど、宗教儀式用の小物で一杯になっていた。祭壇には銀色のコップが置かれ、その隣りには小さな尖り先のない剣が十字架の上に置かれていた。この剣は、後で知ることになったのだが、ダスカロスのサークルでは非常に重要な象徴的な意味を担っていた。

私はこの集まりの招待を受けることにして、ダスカロスとは初対面であった私の妻エミリーを参加させてもらった。集まりが正式に始まる30分前に私は彼の家に着いたが、治療が終わったばかりのダスカロスは疲れきった様子で、キプロス島の肉屋が普段身につけるような皮のエプロンをかけて肘かけ椅子に座っていた。彼の隣りには、粗野な格好をした村の男が幸せそうに、にこにこして座っていた。

「疑い深いトーマス」 (証拠なしでは信じない人。キリストの弟子トーマスが実際に証拠を見るまでキリストの復活を信じなかった。ヨハネ伝20:24~29)が来たね。もう10分ほど早く来れば、奇蹟の証人になれたのに」と、ダスカロスはエミリーと私にユーモアたっぷりに大声で言った。

ダスカロスは、村人が50年代の反植民地の地下抵抗運動時代、英国人の手によって乱暴されたため、過去20年間、脊髄を患っていたことを説明してくれた。

「でも、もう大丈夫だ。今、レントゲンには完治した脊髄が写ってるぞ」と彼は自信をもって言った。

村人は、嬉しいというか信じられないというか、そういった顔をしたまま、快く彼の病気についての私の質問に答えてくれた。彼がどんな様子であったか教えてくれた。そして、長い年月にわたって僕を苦しめていた痛みが消えてしまった、と言った。

「もっとこのことを勉強したいんだけど、明日、アメリカに帰らなくてはいけないし」と私はつぶやいた。

しばらくすると、

「お礼の方法がありますか」と村人が聞いた。

「もちろんあるよ。教えた通りにすればいい。食べたり飲んだりは少し控えて、ビタミン剤を飲みなさい」

村人は金を払おうと粘ったが、ダスカロスは治療費を絶対に受け取ろうとはしなかった。集まりが始まる頃、何か不思議なエネルギーのせいだろうか、村人はとても元気になっていた。

簡単な祈りがすむと、授業が始まった。

「人間は、永遠の存在であり、聖なるモナドの表れだ。そして、人間は、全なるものの中に原型としてある人間のイデアを通過した後、この世の形と存在を獲得する。また、人間のイデアを通過した瞬間に私たちは自分たちのカルマの旅に出発する。最終的な目的は、地上でいくつもの人生を重ねて学んだたくさんの経験を手に、すべての源(ソース)に帰ることにあるのだ」

ダスカロスは、マインドを宇宙を構成する超物質として説明した。人間がエレメンタルをつくるのもこの超物質からである。私たちは感情と思考に形を与え、エレメンタルと呼ばれるものを誕生させる。ひとたび誕生したエレメンタルたちは、各々の独立した存在になり、そのエレメンタルと同じ波動をもつ者に影響を与えることができる。このような用語を耳にするのが初めてだった私たちにとって、彼の話について行くのは至難の業であった。ダスカロスの用語と世界観を理解するには、ずっと彼と一緒にいて議論を続けるしか手はないと思われた。


1978年の秋、私がメイン州の大学で教えるために帰国している間、エミリーと子供たちはキプロスに残ることになった。クリスマスになったらキプロスで家族と再会できるように、そして、1979年の春には大学の長期有給休暇(サバティカル:研究のための休暇)が始まるように予定を組んだ。これでキプロスにまるまる9ヶ月いられ、故郷の文化にどっぷりとつかり、旧友たちとの親交を深め、新しい友人をつくる素晴らしい機会になると思った。同時に、もう既に資料を集めて仕上げるだけになっていた国際テロリストに関する原稿を片付けるつもりでいた。

しかし、心の奥底にはスピロス・サティが潜んでいた。何回かの短時間の出会いによって、私の好奇心は刺激され、シャーマンについて、そして医療外のヒーリングについてずいぶんと本を読むようになっていた。学期の中間にさしかかる頃、ダグ・ボイドによるアメリカ・インディアンのメディスンマンについての研究書、ローリングサンダーを読んでいたが、休暇年はスピロス・サティの資料収集に使い、いずれ彼のことについて本を書いてみるのはどうだろうという思いに急に駆られたのである。テロリスト問題の原稿なら、まだ待てると私は思った。

しかし、弟子にしてくれるかも知れないとしても、それ以上のことを彼がさせてくれるかどうか、私は自信がなかった。目立つことを彼が嫌うことは知っていた。反面、彼はとても良好な関係になれたと感じられたし、彼はたぶん反対しないだろうという思いもあった。まず、下準備のつもりで、手紙と、キプロスの社会・政治的発展についての私の著作を彼に送っておいた。手紙では私の真意には触れず、ただ「ダスカロスがキプロスの抱える問題についてとても関心を持っていることを知っておりますので、この本をお送りいたします。また12月にお会い致しましょう」と書いた。

島に帰った2日目に言語学者の友人を訪ね、自分の意図を話してみた。

「あまり期待しない方がいいわね。ダスカロスは誰にも自分のことを書かせないのよ。インタビューも受け付けないの」と彼女は注意してくれた。

その言葉にはガッカリしたが、運を試してみるべきだと思った。ダスカロスとはもう3ヶ月以上も会っていないし、できるだけ早く連絡をとりたかった。彼の家に着くと、彼はヒーリングで忙しそうだった。居間への戸は閉まっていたが、彼の声がハッキリ聞こえてきた。廊下に座って待っていると「あなたの皮膚病は心理的なものが原因で、治すのには自分の態度を変えなくてはいけないね」と彼が言っているのが聞こえた。

「今まで、どこに行っていたんだね」

ダスカロスは客たちをドアまで見送ってくると、私に気がついて大きな声で言った。私がこの4ヶ月、アメリカに帰国していたのを覚えていなかったようで、私はガッカリした。

「私の手紙は届きませんでしたか」と、私はちょっと戸惑いながら聞いた。

「えっ、何の手紙?」と彼は言い、私の本も受け取った覚えがないという顔をした。

「あのぅ、これですか」と、ダスカロスの弟子と思われる青年が、引き出しを開けて本を取り出しながら聞いた。

「あっ、それです」と私は答えた。

「へぇ、君がそれを書いたの?」。ダスカロスは本を指しながら聞いた。

彼が本を開いて覗いてみることもしなかったのは明らかである。そのうえ、著作が誰であるかも気が付いていなかったのだ。私は少し傷ついた。私に本を書かせてくれる可能性はあまりないような気がしてきた。しかし、状況がいかにギコチナイものであっても、やはり聞いてみるできだと思い立って、

「これらか9ヶ月、キプロスにいることになりました。大学からサバティカルを取れまして……」

「サバティカルって、何だい?」

彼は私の話の途中で質問した。大学で休養や研究のため7年ごとに教授に与えられる1年の休暇だと説明すると、ダスカロスは信じられないというように首を横に振った。

「もしかすると、君が言っているのは、そんなに長い間、働かずに給料がもらえるということかな。そんな休暇を持てるというのは素晴らしいことだね」と眉毛をちょっと上に上げて、からかうような表情で、彼は若い弟子に話しかけた。

サバティカルはただの休暇ではないんだということを説明する間も与えず、私を冷やかすのであった。

「ところで給料はいくらもらっているのか、聞いてもいいかな」と、ダスカロスは低い、からかうような調子で聞いてきた。

追い詰められらような気持ちだった。彼には気配りなどまったくなかった。普通、人はこのたぐいの質問はしないものなのに。

「いいですけれど」と、私は生つばを飲み込んで給料の額を明かした。

「そんなにたくさんの金を!」

彼は驚いたように言うと、首を振った。「たくさんのように聞こえますが、アメリカの標準からいうと普通なんです」、と私はあせってギコチナイ説明をした。ダスカロスは人の気持ちを察することがないようだった。そんな彼の反応は、私自身、小さな虫に成り下がったような気持ちにさせた。その瞬間、私は友人の忠告が的を射たものであったと思い返していた。ダスカロスについて本を書くなんて絶対、そんなチャンスがあるわけないと思った。彼は私のことを全然まともに受け止めていないではないか。

「私はこの休暇を使って、あなたのことを本に書きたいんです」

私はダスカロスの答えがどんなものか想像できたが、勇気を振りしぼって言ってみた。彼は数秒間、考えるような真面目な表情になって、すぐには言葉を口にしなかった。

「何でそんなに私のことを書きたいと思うのかね」

低い声で彼は尋ねた。

英語圏の人たち、とくにアメリカ人がダスカロスの持つ人生へのメッセージについて高い関心を持っていると思う、と私は答えた。

「でも、私が教えているのは私自身からのメッセージではないんだ」

彼は、自分の言葉を強調するように両手を広げて言葉を続けた。

「私は単に、ヨハナンや他の肉眼では見えないマスターたちのチャンネルであるに過ぎないんだよ」

「ヨハナンって誰のことですか?」

ダスカロスは、ヨハナンがダスカロスの身体を通してメッセージを告げるキリストの弟子、福音書著者のヨハネであることを続けて説明してくれた。

「ヨハナンの波動がとても強いために、肉体の頭脳がその教えをチャネリングするのがとても困難なことが多いんだ。そういう時は自分の体を抜け出して、ヨハナンに体を完全に任せ、自分も聴衆として話を聞かせてもらうことにしている。これで私がこの教えを自分の手柄としてはいけない理由が分かるだろう」

ダスカロスは一瞬、鋭いまなざしで私を見つめた。

「スピリチュアルな道を行く者にとって名声とは罠なんだ!」 と、彼は名声に潜む危険性について警告をするように言うのであった。

「私の名前は知られない方がいいのだ!」

ああ、これで私の企画も終わりだな、とあきらめかけていた。ところがその直後、ダスカロスは私を驚かせた。

「でも、私の手柄にしないという条件を守るなら、教えについて書いてもかまわないよ、そうしたいなら」

と、彼は物静かに言うのであった。私は大喜びで、名前が出ないようにできるだけのことをすると約束した。考えてみれば、ダスカロスというのはギリシャ語でよく使われる敬称であり、通常、人びとが学校の先生を呼ぶ時に使う呼び名である。

「ダスカロスの世界について書かせてもらえると決まって、とても嬉しいんですけど、でも、なぜ私にやらせてくれるんですか。先生が今まで一回もインタビューに応じたことがないって聞いていますが」 と、私はその後すぐに質問した。

彼はほほ笑んでから、私を真剣なまなざしで見た。

「その質問に答える前に聞かせてもらいたいんだけど、君は 輪廻(りんね)を信じているかな?」

私はこの意味ありげな問いにビックリして、どうやって答えていいか分からなかった。社会学者としての訓練の中で、私は、疑いをもって物事に接すること、そして答えが出せないような抽象的で形而上学的な問題は避けるよう、これまで学んできた。そのたぐいの問題は有効な観察に必要な客観性の妨げになるものとして教わり、それを信じていた。

「信じたり、信じなかったりする正当な根拠がありません。でも、どちらからの説得にもオープンです。聞く耳を持っているつもりです」

私は、プラトンからブラヴァツキーのような神智学者たちの、輪廻を支持するような流暢な議論にも深く感銘を受けているとも伝えた。ダスカロスは私の答えに満足したようで、そうなんだと言わんばかりにうなずいた。そして私の質問に答えてくれた。

「私たちは初めて会ったのではないんだよ」 と、とても誠実に彼は言った。

「私たちは4回もの前世で知り合いだった。今回の出会いも……」 と、彼は続けて言った。

彼の顔がとても不気味に見えはじめ、きっと彼の目には私の驚きと困惑の表情が映っているのではと思った。

「これは偶然ではないと思う。君が政治や神秘主義に関心があるのが偶然ではないようにね。私がインドでヨギ(ヨーガ行者)だった頃、君もインドにいて、知り合い同士だった。その前世の君は争い合っているいくつかの部族の間の仲裁をしていたんだけど、君は不器用で……」

ダスカロスは続けながら大笑いをした。

「狙いは良かったんだけど、君のおかげで戦争が始まってしまったんだ。スペインのイザべラ女王の時代、スペイン人がムーア人をイベリア半島から追い出そうとした時も、君は政治的な混乱の真っ只中にいた。君の母上はムーア人、父上はスペイン人。2つの争うグループの仲裁を買って出た君は、また失敗。命を失う寸前だった。神秘主義への関心は、何回か転生したチベット時代に育まれた。真理を探究する心が、一つのラマ寺院から次へと君を追い立てた。今の転生では、君が教えている大学が君のラマ寺院なんだ」

最後の一言がおかしくて、笑いが隠せなかった。メイン大学がラマ寺院だなんて、とても愉快に思えたからである。

「君は悟りの近くまで幾度も来ているが、いつも最後の瞬間にやめてしまうんだ」 と、彼はじっと私の顔を見ながら言った。

「どんな風にですか?」

「君の注意が世俗的なことにそれてしまうんだ。ああ、それから……」 と、急にダスカロスは私が自分の輪廻の歴史を十分に消化できる前に言った。

「イアコヴォスに紹介していなかったね」

静かに私たちのやりとりを聞いていた青年が紹介されると、にっこりを会釈した。

『メッセンジャー―ストロヴォロスの賢者の道』より

試し読みはここまでということで、続きは実際に本を購入して読んでみて下さい。このスピロス・サティ(ダスカロス)というおじいさんを写真で紹介しておきますね。

見るからにふつうのおじいさんなのが個人的に「キテます!」という感想なのです。「非凡な人間になるよりも平凡な人間になる方が難しい」と老子のような人も語っていますし、この平凡さが大切なんですね。

ダスカロスは論理的で心優しい温厚な人柄のようです。イギリスの皇室やスピリチュアリズム界で有名なハリー・エドワーズにスピリチュアル・ヒーリングを教えた先生であったようですが、そのことは彼が亡くなるまでは秘密とされていたようです。アメリカのニューエイジ界でヒーリングの第一人者バーバラ・ブレナン博士もダスカロスからヒーリングを教えてもらったそうで、その話は彼女の著書『光の手』の中で語られているテクニックなどに表現されているそうです。ブレナン博士がダスカロスの頭の上に光の天使のようなものが降りてくるのを霊視したと書いている方もいます。いろいろ調べてみるとサイババやアマチが絶賛した伝説のヒーラーとまで言われていますからね。こんな平凡なおじいさんなのに凄いですねー。

彼は誰にでも無償で教えを説き、人々を癒した素晴らしい人だったんですね。
以前ハリー・エドワーズのことをテレビ番組が紹介していた映像がこちらに…。とても貴重な映像だそうですよ。スピロス・サティとのつながりで見ていると、本で書かれているヒーリングの光景が想像できるかもしれません。